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江戸文化を独自の視点で絵と共に取り上げています。

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図書館で講演会1

図書館
昨年の夏(2013年7月)飯能市に立派な図書館が誕生しました。飯能市に
は河原沿いにも充実した子供図書館があり、文化レベルの高さを感じます。
今年出版された、ぼくの長編小説「江戸の象吉」はこの図書館の学習室を御借
りして書き上げた小説です。お礼として、ぼくの絵本や小説を寄贈させていた
だいたところ、江戸の出版事情についての講演依頼があり11月9日お話をし
てきました。来られなかった方の為に内容を簡単にご紹介します。

図書館
●2013年夏にオープンした飯能市立図書館
room1.jpg
●自由に使える学習室(各机には電源も完備)

kouenota1.jpg

kouenota2.jpg 


■識字率
江戸時代は識字率がとても高く、江戸後期町の中心部では100%近かったとの
ことです。同じ時代のロンドンが20%程度ですから、読み書き能力がいかに凄
かったかが伺われます。識字率が高ければ、おのずと本がよく売れる訳です。
優れた職人による精巧な木版画技術と、二百年以上の進化に乗って出版文化が花
開きました。識字率の高さには江戸以前の戦国時代に来た、ルイス・フロイスも
驚いてますから、いかに日本人が勤勉だったかが解り、植民地化が難かしいと思
わせた理由の一つにもなるかと思います。

■活版技術
秀吉が朝鮮に出兵した際に、活版印刷の技術を持ち帰りました。ヨーロッパから
もその技術が入り、キリスト教布教の為の本に使われようとしましたが、禁教な
どにより活版印刷は10年程で廃れていきます。「駿河版」活字も作られました
から、家康も当初はこの技術を取り入れようとしたようです。
Kouennkai2


■完全分業制印刷
現代のオフセット印刷に当たるのが、江戸時代の木版画です。木版画といっても
卓越した技術を持ったプロの職人による完全分業で、一枚の錦絵や本を印刷して
いました。版元(出版社)が絵師・戯作者(作家)・彫師・摺師を使い、質の高
い作品を数多く制作していました。楮から作られる丈夫な和紙と、目の詰まった
固い山桜の木が、江戸の出版文化を支えていたのも見逃せない事です。

江戸の木版画

■江戸と現代の木版画
江戸時代の木版画と現代の木版画は大きな違いがあります。それは、江戸時代の
木版画は殆ど全てが印刷する事が目的です。現代のようにオフセット印刷がない
江戸時代はこの方法しかありませんでした。絵師の作品を忠実に再現する事が最
大の目的でした。現代のそれは、木版画の味やテクスチャーを表現するため木版
画を選択する場合が殆どです。現代の木版画家は自分で彫ったり、摺ったりしま
すが、江戸時代絵師の北斎や広重は自分で版画を彫る事はしませんでした。現代
の絵描きが印刷工場に出向いて、製版しないのと同じ事です。
江戸と現代 
■錦絵と図絵もの
江戸時代の木版画は大きく二つに分ける事ができます。歌麿や広重
などが描く浮世絵は、時に美化や誇張が多く見られます。それに対
して、「江戸名所図絵」「都名所図絵」「伊勢名所図絵」などの図
絵ものは、その当時の風俗や建物などを忠実に描いてる場合が多く
当時の事を正しく知る資料としては最適です。又黄表紙などの挿絵
も、江戸時代の風俗がよく描かれています
錦絵と図絵もの
■神業的テクニック
江戸時代の木版画職人は他の職人同様に10才位から修行に入りますから、その技
は現代の職人は全く及ばない高度なものでした。これは「合巻」と呼ばれた本の挿
絵ですが、定規と比べると髪の毛の線がいかに細く彫ってあるかが解ります。下の
文字は「江戸名所図絵」の一部ですが、これも定規と比べると、文章のルビまでま
るで筆で書いたような細い線で彫られています。
soushi3.jpg

soushi1.jpg


電気のない時代
日本に初めて発電所が出来たのが1887年(明治22年)です。石炭による
蒸気でしたが、東京のど真ん中の南茅場町でした。日本に限らず電気が発明
されるまでは世界中が電力ゼロで生活してきました。長い人間の歴史からす
ると電気を使い始めて、まだほおんの100年ちょっとということになりま
す。そして今はそれがないと何も出来ない時代になってしまいました。江戸
時代の人も電力ゼロであの大都会を運営してきました。その中であれだけ高
度な印刷を考え出し、気品の高いハイレベルな本作りをしてきた事をかんが
えると、何か江戸の人から学ばなくてはと思ってしまいます。

年表new
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| ●講演会 | 14:37 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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図書館で講演会2

木版画の歴史
江戸と言えば「浮世絵」とか「錦絵」という言葉が浮かびますが、最初から
色摺りの版画があった訳ではありません。菱川師宣の墨摺り絵からはじまり
手彩色(丹絵とか紅絵)や型紙による彩色(合羽摺り)、一色摺(紅摺絵)
などを経て、浮世絵師鈴木春信と出版プロディユーサーの大久保巨川によっ
て極彩色の錦絵が一気に世に広まりました。その後、大物版元、蔦屋十三郎
によって、歌麿や北斎や写楽などが世に出ました。広重は幕末のもっと後の
時代の絵師です(残念な事に江戸で流行したコレラにより亡くなってしまい
ました。1858年)

草紙の歴史new

 
遊郭吉原の語源

江戸時代の落語にも多く登場する遊郭「吉原」は、別名「中」(なか)とか
「北国」(ほっこく)とも言いました。浅草の裏田んぼに移転される前は、
江戸のど真ん中にあり昼だけの営業でした。1657年明暦の大火の時に移
転し、夜の営業も許るされました。江戸の土地は家康が入った1590年頃
は葦(あし)の生い茂る寒村(漁村)でした。葦(あし)は悪しに繋がると
のことから、葦(よし)「良し」と言うようになり、それに「吉」の目出た
い字をあてて葦原→吉原というようになりました。
葦の話し

■風水
江戸の町は京都に習って町作りをしました。風水による東西南北に四つの
神を配そうとしましたが、江戸には大きな問題がありました。北側に山の
神「玄武」を配さなければならなかったのですが、西側には神と崇める富
士山があったのです。そこで、四つの神の並びを90度回してしまいまし
た。そして北側には、京都の比叡山を名前だけ持ってきて、上野の寛永寺
を東の比叡山=「東叡山寛永寺」としました。現代の東京で、本来なら西
側に来るはずの虎ノ門が皇居の南側にあるのがその証拠です。

風水と四神

■落語「百川」
古典落語に「百川」というお話があります。日本橋浮世小路にあった料理
茶屋で実際にあった話しを元に作られた話だそうですが、その話しに、こ
の四つの神を使った祭りに使う旗が出てきます。「四神旗」又は先に剣が
ついている事から「四神剣」ともいい、祭りの重要な象徴として使われま
した。又、相撲の土俵の四隅にある房の色もこの四神があしらわれていま
す。
落語百川

鎖国の言葉
江戸時代は鎖国政策をとったといいますが、実際にこの言葉が出てきたの
は、江戸もずっと後になった1801年の事です。造語の天才と言われた
蘭学者志築忠雄が、日本を旅したドイツ人、エンゲルベルト・ケンペルの
日本の事を書いた「日本誌」を訳した時に作った言葉です。彼はその他に
も、「頭痛」「風邪」「加速」「衛星」などの言葉も造ってますから、こ
れらと関連して考えると「鎖国」がどういった言葉だったかが垣間みえる
かと思います。江戸の一般庶民は国が鎖国している認識はなかったかもし
れません。

鎖国論


| ●講演会 | 11:32 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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図書館で講演会3

江戸の始まり

東京が今世界1の大都市になっているのは、徳川家康が1590年8月に北条氏に代わ
って江戸の地に入ったのがそもそもの始まりです。とは言ってもその当時家康は三河の
大名、豊臣秀吉が天下を取った事で、僻地の関東に言わば飛ばされた訳です。この湿地
帯を埋め立て10かけ苦労してなんとか町を作りました。江戸に入って10年目の160
0年の関ヶ原の戦いで天下を取った事で、その工事が天下普請となり、各地の大名がお
金と人をつぎ込んで、一気に町作りが進みました。この地図の様に日比谷の辺も埋め立
て前は入り江で、浅瀬にうめる漁や海苔の養殖用の細い棒を「ひび」と言った事から「
ひびや」の地名が生まれました。1603年に幕府を開きますが、大阪にはまだ豊臣秀
頼が健在でした。そこで、盤石な徳川政権にするため1615年の「大阪夏の陣」で戦
国時代最大規模の戦をお越し、豊臣氏を滅亡させ、徳川幕府による長い江戸時代の始ま
りとなりました。安定した政権が出来、やる事は全てやり終え安心したのか、翌年に家
康の波瀾万丈の人生は終わります。天下を取った勢いで、家康、秀忠、家光と江戸城に
は三つの天守閣が次々と作られますが、1657年の明暦の大火で焼失した後、江戸城
には二度と天守閣は作られませんでした。理由は財政上の問題と、天守閣は権威の象徴
なので、必要がないとの事からでした。(テレレビドラマで、徳川吉宗が天守をバック
に立っている様子は全くの嘘という事になります)

※地図は1590年家康が入ったばかりの江戸で、上野の辺は湿地帯で、深川は三角洲の
なにもない状態でした。下は1643年家光時代の江戸。
edo1590.jpg

edo1643.jpg

| ●講演会 | 15:32 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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