江戸はえェどう    HOME

江戸文化を独自の視点で絵と共に取り上げています。

2012年06月 | ARCHIVE-SELECT | 2012年08月

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鷹狩り

 丹頂鶴も舞い降りた江戸郊外


日暮里周辺にこんな景色があったなんて、江戸と東京は経度と緯度が同じだけで、
まったく別の場所と思った方がいいかもしれませんね。
この辺りは江戸時代、将軍様の鷹狩りの場として一般人の猟は厳しく
禁じられていました。自然とツルやトキやコウノトリなどが保護されて
いたわけす。特にツルは鷹狩りの最も重要な獲物だったそうです。
野鳥に神経質な役人のため、迷惑したのはこの辺りの百姓でした。

「おい、三郎兵衛どうしただ、浮かねェ顔してよ」

「どうもこうも、ねェだよ。コウノトリが家の屋根に巣作っちまってよ
鳥見に家も畑も出入り禁止にされちまったよ」
「そいつあ、気の毒なこったなー‥‥‥」
‥‥‥とこんな会話も当然あったでしょうね。

豆知識
「鳥見」とは将軍様の鷹狩り場の野鳥を監視する役人の事。
明治になると、村田銃の普及などもあり、
鳥見の監視ががなくなると、ツルなどは姿を消した。

 Illustration by Daisuke Ota  絵本「カラクリ江戸あんない」より
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| ● 江戸のお話色々 | 15:18 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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華屋与兵衛

江戸の食文化 1

この絵のにぎり寿司の始まりは、和食ファミレスの名前にもなっている
両国の「華屋与兵衛」が考案しました。(1820年頃)
当初は生そのままと言うより、醤油付けなど味付けしたネタをのせていた様だ。

同じ屋台売りをしていた、鰻の蒲焼きは当初「筏焼き」の言い方もあったとの事。
開いて串を何本か刺した形が筏(いかだ)のようだからだそうだ。
そう言えば、見た目は水に浮きそうですね、、?
それが何故「蒲焼き」と言う様になってしまったかと言うと、
開いて串を刺してた前は、ぶつ切りにした鰻を串さしにして焼いていました。
その形が蒲の穂に似ていたので、名前だけ「蒲」が残ったと言う訳だ。
「筏焼き」が定着していたら、それはそれで、面白い名前だと思うんですがね。
「筏焼きの松お願いね!」なんて、言えたのにね!
ちなみに「うな丼」の始まりは、炊きたてのご飯の間に鰻を入れて
冷やさない様にしたのが始まりだそうです。
看板は「元祖鰻めし」

●豆知識
江戸時代の屋台は車は付いてなく、据え置きでした。
天ぷら・寿司・鰻・しるこ・だんご、等等、様々な屋台売りがありました。
そばの担ぎ屋台は調理器具やお湯など、相当に重かったので、
実際は床店の様に移動はしなかったかもしれません。
担いで売り歩く、八百屋や魚屋の様にはいかったでしょう。



Illustration by Daisuke Ota          絵本 「カラクリ江戸あんない」P26より

| ● 江戸のお話色々 | 22:09 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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船宿

船遊山

「船宿」と言っても、宿泊目的の旅館とは違います
荷物の斡旋(荷船宿)と、客を乗せる観光業(遊山船宿)がありました。
お足(お金)がかかるので、殆どは金持ち常連客相手の仕事です
屋根船なんか使うと、長屋の家賃一ヶ月程(三百文から五百文)がかかり
酒手も百文位必要ですから、一般庶民にはおいそれと手が出ない代物でした。
船での遊びは、花見、花火見学、紅葉狩り、雪見、と様々です。
その他にも大店の旦那が芸子と船宿で落ち合って、船の上でお楽しみなんて
使い方は、当たり前の事です。
吉原が不便な場所に移転されてからは、この船が大いに利用されました。
(1657年に人形町から浅草裏田んぼへ移転)
※落語の「船徳」と「夢金」を聞くと、船宿の雰囲気が味わえます。

●豆知識
船宿でよく使われる「猪牙船」(ちょきぶね)と言う
細身の小さな船がありますが、この名前の由来はと言いますと
〝猪の牙の様に先が曲がって尖っていた〟とか〝速い事を「ちょき」と言った〟
などの説があります。
船大工の〝長吉〟が作ったとの説も‥‥‥?

女将  「ご隠居さま、今日はいいお日和で、良かったじゃないですか」
ご隠居 「いつもすまないね、今日は手代の佐吉に江戸湊をたっぷり
     見せてやろうと思ってな」
女将  「そうですか、それは奉公者思いで、結構な事で‥‥
     じゃ徳次郎や、宜しく頼んだよ」
徳二郎 「へい、かしこまりました。ご隠居に、佐吉さん、
     今から船出しやすから、しっかりとつかまってくだせいよっ」
女将  「行ってらっしゃいまし」

船宿での物語はいくらでも考えられそうですね。
裕福な川越の米問屋のご隠居は、丁稚の頃から可愛がっている手代の佐吉を
連れて、船を雇って江戸の深川まで来ます。(新河岸川〜隅田川)
荷物はあらかじめ別便で江戸の宿に預けてあり、江戸湊をぐるりと見学します。
永代橋や弁財船や佃島を見学した後、鰹の初荷で賑わっている
魚河岸を見る為、日本橋の直ぐ近くで船を降ります。
その後、江戸に何泊かしながら、両国や浅草等を見学して、陸路川越まで帰ります
川越から出た事がない佐吉にとっては、人生で初めての大きな息抜きです。
田舎の手代さんにとっては、海外旅行の様な経験だったでしょうかね‥‥‥?


Illustration by Daisuke Ota 絵本「カラクリ江戸あんない」P17より

| ● 江戸のお話色々 | 14:45 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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窒素・リン酸・カリウム

お金になった糞尿


ぼくが育った練馬は子供の頃、畑が沢山ありました。家の直ぐ近くに肥溜め
なんかもあって、肥桶担いだ人が学校の脇の道を行き来もしてました。
江戸の町の糞尿は殆ど全て、近隣のお百姓さんが買い取っていました。
長屋の大家と契約して、お金や野菜と交換していました。
これはみんな大家の収入になります。他に馬や牛の糞も拾われました。
江戸には下肥問屋なるものまで出現したそうですから、その需要度が想像出来ます。
  ※集めた下肥は肥溜で水で薄めてから暫く寝かせます

        ーーー落語の小話ーーー
殿様「これこれ、知恵之助や。この青菜は実に美味しいが、なぜじゃ?」
家来「ははー、それは下肥を使っているからでございましょう」
殿様「そうか、ではもう少し、これにかけてまいれ」
家来「‥‥‥」

●豆知識
窒素は葉肥、リン酸は実肥、カリウムは根肥と言われています。
糞尿には窒素とリン酸が含まれ、カリウムは木灰です。
灰は長屋の竃などからも集められました。
大根などの根菜は畑に灰が使用されたと思われます。
Illustration by Daisuke Ota

| ● 江戸のお話色々 | 06:57 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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ウイリアムアダムス

星がよく見えた江戸の町

マザーグースの童謡集がイギリスで出版されたのは日本の江戸時代です。
もしその頃イギリスと日本に交流があったら、こんな本屋があったかも?
しれませんね‥‥。進んだ考えを持っていた、吉宗だったらと思いますが、
悪い言い方をすれば、かれとても鎖国状態の国の同じ穴のムジナですから、
無理でしょうね。でもです、この方隠居した後、天体を観測する、
天文屋敷なるものを作ったんですよ。
そう言えば、江戸の夜は電気がないから真っ暗だし、空気が奇麗だったから
南アルプスの山の上程、星が見えたんでしょうかねー?あー羨ましい!

●豆知識
江戸に「按針町」の名を残した、三浦按針はイギリス人です。
家康に可愛がられ、三浦半島に領地まで拝領されました。(相模国三浦郡逸見)
今の横須賀辺りです。
〝按針〟は船の羅針盤を意味します。
三浦按針(ウイリアムアダムス)は航海者だったからです。
日本に漂流してきたのは、1600年4月、なんと関ヶ原合戦の五ヶ月前の事。
アダムスが持って来た大砲が、関ヶ原で使われたとか‥‥‥?
※この人物に興味ある方は、「航海者」白石一郎 文春文庫を読んでみて
ください。気持ちが大きくなります。
Illustration by Daisuke Ota

| ● 江戸のお話色々 | 10:05 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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日本橋

 魚河岸の起こり

江戸では「にほんばし」大阪では「にっぽんばし」と言いました。
江戸時代と言えばこの単語が直ぐ頭に浮かびますが
その頃は「魚河岸」も有名でした。
大正12年(1923)の関東大震災で今の築地に移されましたが、
それまでは江戸の初めから、明治大正とずっとここにありました。
今はスターバックスコーヒーなどもあり、まったく違った風景になっています。
魚河岸の反対側には船宿も沢山並んでいましたから
そこの二階からの眺めはさぞ面白かったと思います。
仲買人が発する胴間声や、棒手振り商人達の威勢のいいやり取りが
聞こえた事でしょう。
橋寄りの宿からは、日本橋を行き来する様々な人達の様子も
見えた事でしょう。
ああ‥やっぱり江戸時代にワープしたいっ!

●豆知識
江戸初期、佃島の漁民が幕府に納めた残りの魚を売ったのが始まりですが、
その「佃」は摂津国(大阪)の佃村の漁師を家康が連れて来たのが名の起りです。
戦国時代にその佃村に恩があった家康が、その事を忘れず
江戸湾の浅瀬を埋め立て、漁の特権を与え、住まわせたのが佃島です。
この事は又折に触れて話します。


karakurishigotofuukei.jpg

  ●上 絵本「カラクリ江戸あんない」P22-23より
  ●下 同絵本P20 佃島の絵  版画制作風景

| ● 江戸のお話色々 | 12:32 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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