江戸はえェどう    HOME

江戸文化を独自の視点で絵と共に取り上げています。

2012年05月 | ARCHIVE-SELECT | 2012年07月

| PAGE-SELECT |

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

駄洒落を楽しんだ江戸の人

地口
plofilecut.jpg

作•太田大輔


えーっ、江戸時代の言葉遊びに「 地口言葉」ってェのがありますが、簡単に言えば
駄洒落の事です。例えば「舌きり雀」をもじって「着たきり娘」と言ったり
「猫に小判」が「下戸にご飯」とかですね‥‥
江戸の人はそんな言葉で遊ぶのが好きでして、他にも「 忌み言葉」なんてんで
マイナスのイメージをプラスに替えてしまうのが上手でして、例えば「 終わる」
を「お開きにする」とか、「梨の実」は「無し」に繋がるってェんで
「アリ(有り)の実」と言ったりですね、「切り身」は武士の切腹に繋がるってんで
「刺身」と言い換えたりと、上げたら切りがないほど沢山あります。
魚の身を切るんじゃなくて、刺すのにそれが言葉として定着してしまうてェと
普通に使われてしまいますから面白いもんですな。
江戸の方達は現代人と違って頭がかなり柔らかかったようです。
この大工の与太郎みたいにあんまり柔らか過ぎてもいけませんがね‥‥。


頭 「おいっ、与太吉!おめェまた、酔っぱらってるな」
与太「酔っぱらって‥なんか‥いねェーよ。ただ‥‥酒が体ん中、
   走りまわっててよ、ウイッ、
   あちこちぶつかるもんで、体がヨロヨロすんだな、これが‥‥」

頭 「それを酔っぱらったってェ言うんだよ」
与太「そうゆう事にしときましょうかね」
頭 「ッとにもーっ。‥‥ところで、わかってると思うが、
   本郷の大名様の屋敷普請は明日っからだから、遅れんなよっ!」

与太 「へいっ、わかってます。大神宮さまで‥」
頭 「“だいじんぐうさま”じゃねェッ!〝だいみょうさま〟
   加賀のお殿様の事言ってんだよッ」

与太 「“かかァのおっと様”と言うと、頭の事で?」
頭 「“かかァのおっと”じゃねェッ!前田の大将だよ」
与太「前だの後ろだのって、ハッキリしてくだせいよ」
頭 「もういいッ。お前と話してると、こっちまで、頭がおかしくならー。
   とにかく、寝坊するなよっ!明け六には、みんなそろう手はずだからなっ」
与太「それじゃ今から朝までずーと、目開けてますから、でェじょうぶです」
頭 「それじゃ仕事になんねェだろうが、ちゃんと寝とくんだぞ」
与太 「そりゃいいや、「 ネトク」ねーっ、“寝ると、得”があんだね」
頭 「まあ、そうゆうことだ‥‥」
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥


こんな与太吉なんですが、これが仕事に入ってノミを
持つってェと、これが凄い!
人ががらっと変って名人に変身するんですな。
右に出る者がいないってェやつです。
与太が彫ったほぞを合わせるってェとこれが、びくともしない。
なんでもメリハリですな。仕事してる時は、鬼か神の様になって、
普段は馬鹿になる、これがストレスが溜まらない、生き方でしょうかね。

●豆知識
良質な酒は殆どが関西方面からの下り酒でした。
江戸に〝下ってくる〟は、酒に限らず良い物の代名詞でした。
「くだらない」と言う言葉はここから生まれました。
酒は樽回船と言う帆船で大阪から江戸まで着く間に
波に揺られ、味が良くなったといいます。
途中相模湾で富士を見ながら運ばれるので〝富士見酒〟とも言われました。

スポンサーサイト

| ● 江戸のお話色々 | 09:08 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

長屋

 快適な割長屋

父 「千吉、巾着に何がへェってるんだ?」
息子「えへへっ」
母 「この子ったら、芝の海で拾った貝殻を大事にもってるんだよ」
父 「そう言ャ、浜でえらく嬉しそだったな」
母 「又連れてっておくれよ」
息子「おくれッ、おくれッ」
父 「よしきた、今度は親方に頼んで、船借りてやっからなッ」
母 「そんな無理しないでいいんだよ。それにこの子に船はまだ早いよっ!」
父 「でェじょぶだよ、心配ェするなって。〝三つ子の魂百まで〟
  って言うじゃねェか。佃をぐるりと回って潮風たっぷり吸わしてやるぜッ!」

©Illustration by Daisuke Ota

平和な会話をしている家族が住んでいるのは「割長屋」で
長いケーキを三等分した様な切り方で部屋割りしています。
「棟割長屋」は屋根を中心に更にそれを半分に切りますから、
六等分になって一部屋がとても狭く、風通しがとても悪くなります。
貧乏な独身男性用でしょうか。
ちなみに、絵に見えてる生活道具は、箪笥、行灯、長火鉢、タバコ盆
おひつ、箱膳などです。
深川江戸資料館に行くと、本物の長屋に上がる事が出来、
備品にも自由に触る事が出来、そこの座敷に寝そべっていると
まるで江戸時代にいるかの様な錯覚を覚えます。

●豆知識
長屋は基本的には板敷きで、お金のある人は自分で畳を購入します。
だから、畳の厚み分床が低く作ってあります。(写真)
引っ越した人が畳を置いてけば、次の人はラッキーと言う事になります。

参:この場面設定では、父親は船宿の通い船頭で、「親方」とは船宿の主人の事です。
仕事が船頭なので家族に気軽に〝船に乗せてやる〟と言ってますが、
一般庶民はとても高くておいそれとは乗れませんでした。

●深川江戸資料館の長屋内部

□畳の敷いてない部屋、代わりにゴザが敷かれてます。
(絵とは逆方向から見た入口、狭い土間に二口竃があります)
nagaya1.jpg

□畳を敷いた部屋
nagaya2.jpg

| ● 江戸のお話色々 | 22:33 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

ドイツ人医師ケンペル

鎖国」と言う言葉の誤解

松尾龍之介さんの「長崎を識らずして江戸を語るなかれ」と言う本に
志筑忠雄の事が詳しく書かれていました。それによると‥‥
「鎖国」と言う言葉は造語の天才と言われた、蘭学者の志筑忠雄(中野忠次郎)
が1801年に考えた言葉だそうです。
1801年と言えば、明治維新の66年前です。
志筑忠雄は江戸前期に来日したドイツ人ケンペルが書いた日本の情報書「日本誌」
を訳しました。その中の〝日本の孤立政策〟を肯定した部分に共鳴し、
翻訳時に〝鎖国〟という言葉を作ったとの事です。
ケンペルは人種や宗教や領土問題で、戦争ばかりしているヨーロッパに
比べ、平和な日本をとても評価しました。
その事に同感した志筑が「鎖国論」をまとめた‥‥とありました。

ですから徳川幕府は最初から、この〝鎖国〟と言う言葉を使って
政策を打ち出した訳ではないのです。
家康はむしろ海外貿易に積極的な考えでしたが、残念ながら〝大阪夏の陣〟
の翌年に亡くなってしまいました。(1616年)
家康がもう少し長生きしていたら、情勢は変っていたかもしれませんね。
三代目の家光の時代から、一気に国を閉ざす考えが強まったと思います。
戦国時代の修羅場を幾つも乗り切ってきた将軍と
おぼっちゃま将軍との違いでしょうか??
歴史に〝たられば〟を言ったらきりがないですが、
その辺りの歴史の綾が、現代にもおおいに関係しているかもしれませんね。
少なくても長崎辺りでは「鎖国」と言う言葉からはかけ離れた、
もっと自由な通商関係があったようです。
江戸の一般庶民にしても、国を鎖している感覚は持っていなかった
と思います。

●豆知識
1853年浦賀に来たペリーは、実は太平洋を横断して来たのではないのです。
アメリカ東海岸からアフリカを南下して、インド洋を経て日本に来ています。
蒸気船による太平洋の定期航路が出来たのは、1867年明治維新と同じ年で
皮肉にも江戸時代の終わりと丁度重なっています。
(参:帆船による北太平洋航路は1565年に発見)
※ついでに、志筑忠雄(本名中野忠次郎)の父はあの有名な大店〝越後屋〟
の長崎出張所を開いた(1726年)中野用介と言う人物だそうです。


nagasaki.jpg
Text&Illustration by Daisuke Ota

| ● 江戸のお話色々 | 20:52 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

花火

 狐の両手に「鍵」と「玉」

船頭「ちッ、おめェら、あんまし見せつけんなよッ」
娘 「喜助や、さっきも言ったけど、若旦那と船出した事、絶対内緒
   にしておくれよ」

船頭「わかってますってお千ちゃん、野暮な事はいたしません!」
娘 「ほんとに頼んだからね!」
船頭「へーい、へいっと」
若旦那 「ところで、喜助とやら。鍵屋と玉屋の由来を知ってるかい?」
船頭 「〝とやら〟ですかい。‥‥なんですって?〝ゆらい〟ですかい?
    そう言ャー、いつも掛声かけやすけど、知りませんなー」

今でも夏になると両国で花火を打ち上げますが
花火の元は戦国時代の鉄砲からきています。
江戸になって平和になると、火薬が余って
それを狼煙の技術と遊びに転換したのが、花火です。
大和の国(奈良県)篠原村からでてきた篠原弥兵衛が、両国橋のたもと
(日本橋横山町)で「鍵屋」という花火屋を起こし、後にそこの優秀な職人清吉が
(番頭清七という説も)独立して作ったのが「玉屋」です。
鍵屋より人気が出て繁盛しましたが、将軍日光御成前夜に火事をおこしてしまい
江戸払いになってしまいました。
その後もかけ声だけは「玉屋〜〜ッ」の方が多かったそうです。
magoichi.jpg 
Illustration by Daisuke Ota

ついでに、落語の「たがや」では町中で武士と喧嘩して
その刀を奪った桶職人(たが屋)が武士の首をはねると、それが見事に宙に飛んで
見物人が花火の掛声にかけて「た〜がや〜〜ッ」と言って落ちます。
かなりのブラックで、面白いですよ!
※箍(たが)とは桶&樽を締め固める竹製の輪の事

●豆知識
鍵屋弥兵衛の出身地篠原村にあった狐稲荷が、片手に「鍵」片手に「玉」を
持っていたとの事です。
「鍵」は開運の扉を開く鍵、「玉」は美しく、大切な物でしょうか。
火事を出した「玉屋」は30年一代限りだったと言いますから
ここでも美しい者は長生きできなかったのですかね〜‥…。

絵本「カラクリ江戸あんない」P32-33より

| ● 江戸のお話色々 | 07:57 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

結婚難

 紅の付いた竹

「久しぶりに上物の鯛が入ェたから、頭で炊ェた飯と食っちまおうかい。
おっと、好みの女だッ!」

「おやっ、いい男じゃないか。火吹竹子をもらっておくれな」


江戸ではこんな上手い具合に男女がくっ付く事はなかったでしょう。
幕末になって男女人口比がやっと五分五分位になったといいますが
始めは女性が少なかったので、男は慢性の結婚難だったらしいです。
〝12才位で丁稚奉公として働き出し、手代を経て、番頭になり
やっと暖簾を分けてもらって独立したのに妻もなく、もう五十の声を聞いていた〟
なんて事も普通にあった様です。
〝九尺二間に過ぎたる物は紅の付いたる火吹き竹〟
なんて都々逸があった位でした。

●豆知識
〝九尺二間〟とは間口が9尺(約2.7m)奥行きが2間(約3.6m)の棟割長屋の事で
分かり易く言えば、土間(そこに竃などがある)が一畳に四畳半の
狭いワンルームって感じです。
ちなみに〝割長屋〟はもう少し広くて、奥にも外に抜ける障子があったので
風通しがとても良かったはずです。その分家賃は高いですがね‥‥。
その他、二階付きの部屋もあり〝九尺二間〟は長屋の代名詞でもあり、
様々な部屋があったと思います。
※〝火吹竹〟とは、竃の薪が良く燃える様に口で空気を送る竹製の道具の事。

©Illustration by Daisuke ota

| ● 江戸のお話色々 | 17:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

囲炉裏の照明

 赤ずきんちゃん江戸話

●「おばばよ、しばらく見んうちに、ずいぶんと大きゅうなったな。
それに、酒までのむとはどうしたことだ‥‥」
△「おまえも大きゅうなって、ずいぶんと美味しそう‥‥
いや、可愛くなったのう‥‥グフフフッ」


江戸町内は火を扱う物は厳しく制限されていたので、
こんな囲炉裏は裕福な商家でも、なかなか許可が出なかったはずです。
火鉢は色々とありましたが、炭の火は照明にはなりません。
庶民の照明と言えば、いわしの油を使った行灯ぐらいで
臭くて早く消したと聞きます。
菜種油は高いし、蝋燭はもっと高価なので、やはり夜は早く寝たのでしょう。
それに比べ田舎では、松明(たいまつ)をつけたり、囲炉裏も結構な明かりに
なったはずです。
屋根は殆どが茅吹きで、こんな囲炉裏の煙を上手く吸い込んでくれました。
江戸近郊の農家は収入が多く、意外と裕福でいい生活をしていたと思います。
現代では、土壁に囲われた囲炉裏のある茅葺き屋根の家に住む事は
とてもとても贅沢な事になってしまいましたね‥‥。

●豆知識
行灯(あんどん)は「行く灯り」と書きますが、これは灯りを手で持って
家の中を歩いた時の道具がそのまま名前だけ残ったもので
置き型の照明器具も「行灯」と言う様になりました。
木枠に和紙を貼って、中に蝋燭や火皿を入れてる看板などもそこにドデンと
置いてあるのに、「行灯看板」などといいます。


   ©Illustration by Daisuke ota

| ● 江戸のお話色々 | 15:52 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

化物草紙

 化けた、化けた

室町時代の「付喪神絵巻」(つくもがみえまき)に捨てられた道具が妖怪に化けて
人間を食べてしまうお話がありますが、江戸時代になると化物が登場する草双紙
(雑誌)が沢山出版されました。
僕のこの絵は「化けた、化けた」と題した「この本読んで」という雑誌の
中の綴じ込み絵本の挿絵ですが、ちなみにストーリーは化けた道具が人間の真似して
好き勝手な事をし始めるが、人間から本を読んでもらった事を切っ掛けに
みずから本を読む様になり、賢くなっていくというお話です。
見る機会がありましたら、ご覧になってください。

●豆知識
皆さんご存知の「東海道中膝栗毛」を書いた十返舎一九は意外にも
下級武士出身の役人で、戯作者になってから化物の話を沢山作っていて
質の高い挿絵まで描いています。
※つくもがみ「付喪神」=器物の化物



mikoshinyudou.jpg
「この本読んで」2011年夏 第39号より   ©Illustration by Daisuke Ota

konohonyonde.jpg
 こんな感じで絵本雑誌の中の綴じ込みです。

| ● 江戸のお話色々 | 08:15 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

カワウソ

 奇麗だった川

「せっ、船頭さん!これはいったいどうなってるんだい?」
「へいっ、この船は櫓をこがなくても動く仕組みになってやす」
「なんだって?‥そっ、そういえば、あんた船先にいるし、両手は空いてるね‥」
「へいっ」
「櫓も竿も帆もなくて、どうして船が動くんだいっ?」
「へへへっ、そいつァ、内緒で‥‥」
「そういわず、酒手は弾むから教えてくれっ、殿が知れば出世していただける
 やもしれん」
「あっしの力を出世の道具につかおうってのかい?
 そうは問屋がおろさねェよっ」


「江戸の自然誌」を読むと、江戸時代は浅草の反対岸にある「源森橋」(源兵衛橋)
の辺りにカワウソが生息していたそうです。現代でいうと、ちょうど浅草松屋の
向う岸辺りですから、今ではとても考えられない場所です。
江戸時代は川も奇麗で、そんな所にもカワウソが住んでいたのですね。
このお話は、渡し船の船頭がカワウソに船を引っ張らせ、客をビックリさせた話です。
この近くの日暮里辺りでは、丹頂鶴も舞い降りたそうですから、現代の東京と江戸は
緯度と経緯が同じだけで、全く違った所と思った方がいいかもしれませんね。
なんたって、隅田川の水で酒まで作っていたんですからね‥‥。

●豆知識
隅田川は、浅草近辺で「浅草川」と言ったり、大昔観音様が見つかった事から
「宮戸川」なんて呼び名もあります。その他下流部分は「大川」なんて
言い方もします。小説などではこの言い方が多いですね。
ぼくもこの呼び方が好きです!
その大川に掛かる橋だから、吾妻橋(東橋とも書く)は別名「大川橋」とも言いました
江戸の人は同じ川の名前でも色々と楽しんでいたんですね。
「現代の馬鹿な役人は地名をつまらねェ名前に統一しやがって、情緒もへったくれも
ねェってんだいっ!えーっ、どうしてくれるんだいっ」


    福音館書店・母の友挿絵より ©Illustration by Daisuke Ota

| ● 江戸のお話色々 | 10:27 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

| PAGE-SELECT |

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。