江戸はえェどう    HOME

江戸文化を独自の視点で絵と共に取り上げています。

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旅その5

トラベルコーディネイター

江戸初期、武士は領地と江戸間の用事、商人は家職のため、一般人は信心のため巡礼修行の旅をしました。でもまだまだ自由な遊山旅に出たりはしませんでした。旅が本格的に流行しはじめたのは、1700年中頃からでしょうか。それでも表向き目的のない旅は許されなかったそうです。しかし「伊勢参宮や病気療養の湯治に行く」と言えばあっさり許されたのです。大方お宮参りは表向きでの目的で、実際は観光旅行の遊山旅です。1800年代初頭の呑気な時代に入れば、老若男女、子供まで好き勝手に旅に出ました。それだけ旅人が増えれば、それを当て込んだ商売が発達します。その代表格が「御師(おし)」と言う旅行業者です(伊勢では〝おんし〟と呼んだ)今で言う旅行代理店の営業マンでしょうか?宿の手配や、迎え先で旅人の荷物の世話や、年末には日本の各地を回り、お札を配ったり、祈祷しながら、宣伝して回ったそうです。団体旅行の「講」はこの御師が考えだした旅行のやり方です。
●旅その1●旅その2●旅その3●旅その4

※菅笠、手拭、竹杖、道中刀、振り分け荷物などは江戸の旅に欠かせなかった物です。
zoukichitobira
「江戸の象吉」扉絵より

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| ● 江戸のお話色々 | 20:41 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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人気化物

「大頭の嫁取り」

大頭「娘よ、この大頭の嫁にならぬか?」
娘「何を言う、私はそんな鼻毛の伸びた男はいやでございます」


江戸時代の黄表紙などで大人気の化物に大頭がいる。
大頭はさまざまで常連だ。
人間社会でも流行ったことがあり、お店の小僧が駕篭に和紙を貼って作った大頭を冠っ
て使いに出たりもしたらしい。
この大頭は僕の想像で、鼻毛の伸びた女好きな大頭だ。
ootama  

| ● 江戸のお話色々 | 19:25 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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旅その4

        「鍋釜夫婦二人旅」

釜代「おまえさん、頭のご飯が炊けたから、中食とするかい?」
鍋助「そうだな、おれの頭の煮付けも丁度いい頃合いだ」


明治になって蒸気機関車などの乗り物が発達する以前の旅はとにかく歩いた。
徳川幕府は庶民が国内を早く動き回り、国の改革が進むのが怖かったのかも?
現に、馬車などの交通を進言した者がいたそうだが、却下されています。
なにはともあれ、歩く人しかいないら道もそんなに荒れなかったんです。
早馬などは武士の特権だし、街道の馬子が扱う馬は歩きと同じ速度で早くはなかったですしね。
その分、東海道などの大きな幹線道路には宿場がほぼ10キロ毎にあり、歩く人のことを考えて整備されていましたし、その間にも「間宿(あいのしゅく)」という休憩所もありました。
「旅その2」でも書きましたが、一里の長さは地方によってさまざまでした。例えば山道や平地では同じ一里でも距離が違っていて(山道は短め、平地は長め)歩く人が疲れない様に考えられていたんですね。一里が3.927㌔と決められたのは明治24年になってからです。

nabekamafutaritabi

| ● 江戸のお話色々 | 20:44 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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付喪神(つくもがみ)

         「道具の化物」

悪兵衛は丘の上で道具達に言いました。
「おめえ達にも立派な魂があることがわかったぜ。だからもう脅かさねェでくれよ」
道具達は懲らしめるのをやめました。(絵の上の文章)

室町時代の絵巻物に、無下に捨てられた道具が化けて人間に復讐する絵があります。
そんな昔でも物を祖末にした人はいたのですね。
江戸時代は現代のように道具類の大量生産は出来ないので、物をとても大切にしました。ぼくのこの絵のように化けた道具のことを「付喪神」と呼んでいました。
この付喪神を題材にした絵本、「まげすけさんとしゃべるどうぐ」を作りました。
magesukebanngai

| ● 江戸のお話色々 | 21:13 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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江戸近郊農家

ishabousan2

「江戸近郊農家は以外と裕福」
江戸時代の百姓は高い年貢の取り立てで、苦しい生活のイメージばかりが先行しているが、江戸近郊の農家は大都市江戸の食材需要から裕福な農家も少なくなかった。それに人口100万都市江戸が生み出す下肥は田畑にはもってこいの肥料で、良い作物が育った。それに江戸は鰯の漁獲量も多いことから、乾鰯なども肥料として使え、更に竃から出る灰も肥料として沢山手に入った。(江戸から遠い農家は腐葉土などを作るしかなかった)
農家は長屋の大家などと契約し、野菜や現金などと交換して下肥を手に入れた。大家は地主からの給金の他にそれが臨時収入にもなった。

●この下肥を題材にした面白い小話がある。
馬鹿殿「これ三太夫、この小松菜は実に美味しいが、どうしてじゃ?」
三太夫「ははーっ、それは良質の下肥を使っているからでしょう」
馬鹿殿「そうであるか、ではこれにその「しもごえ」とやらをもう少しかけてまいれ」
三太夫「‥‥‥‥」

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船頭

船宿と落語

江戸の町に欠かせなかった職業が船の操縦士「船頭」だ。タクシードライバーみたいな役割もするが、荷を運んだりのトラックドライバーでもあった。町中で船を利用するにはかなりのお足がかかるので、金持ちの贅沢な遊びの要素があり、一般庶民はおいそれと手がでなかった。運賃の他に「酒手」というチップも欠かせなかった。今の東京は電車の便がいいので、やはりお足がかかるタクシーはあまり使わないだろう。
船頭が出て来る落語に「船徳」や「夢金」がある。「船徳」には家業を継ぎたがらない遊び人の若旦那が出て来る。〝船宿〟とその若旦那の名前〝徳兵衛〟で題名が「船徳」と言う訳だ。方や「夢金」では欲張りな船頭がそのがめつさ故、死ぬ思いをするが、話しの終わりがこの題名通りの落ちで面白い。話の内容が全く違う二つの話しだが、江戸の船宿事情が解って面白いですよ。ぼくの描いた船頭は、絵本「医者坊さんと人食い鮫」に出て来る海の渡し船頭です!ちょっと田舎者の雰囲気にしてみました。江戸から旅に出ると、こうした海や川を渡す船頭と出会えるのです。ちなみに橋がない川は〝渡し人足〟に頼むか、やはり船を利用しました。ついでに、着流し姿の粋な船頭の絵も残っています。

sendo1

| ● 江戸のお話色々 | 18:02 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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勘当

「若旦那」

落語の欠かせないキャラクターに大店の若旦那がいる。「唐茄子屋政談」「羽織の遊び」「酢豆腐」などにその人物が出て来る。最初の話しは、勘当され、行き場がなくなり身投げしようとするが、唐茄子売りの叔父さんに助けられ、改心する話。後の二つは、町の貧乏若者達が金持ちの若旦那を利用していたずらをする笑える話。この挿絵の「酢豆腐」ではカビの生えた豆腐を〝めずらかなもの〟として、見栄っ張りの若旦那に食わせてしまいます。落語は人生勉強にもなるし、頭を柔らかくしてくれるので、是非みなさんたまには寄席に行ってください。ちなみに本気の〝勘当〟は役所に届けを出され、御ふれが出て、一切の仕事が出来なくされてしまいます。江戸の親の方が今よりずっと厳しかったかもしれませんね‥‥。  
●挿絵 NHK出版「荻野アンナのフラふら落語」より

sudoufu

| ● 江戸のお話色々 | 21:32 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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四文銭

「団子の数」

この旅の坊さんが食べてる団子は人間の頭、両手両足を表していたので、当初5個串に刺してあったが、江戸時代の明和5年4月28日(1768年)真鍮四文銭(裏に波模様があったことから〝波銭〟とも言った)が登場した事から、その金額に合わせ団子の数が5個から4個になったとか‥‥。ついでに、その月の6日に大火に見舞われた遊郭吉原が、一般住宅地域の並木町、今戸、鳥越などで仮営業を行っていた。〝雰囲気が変ってよい〟と大人気だったそうな‥‥なんだかな〜‥‥。ちなみに〝今戸〟と言えば「今戸の狐」と言う、噺家の弟子とやくざ者とのやり取りがとても面白い落語がある。
●絵 太田大輔 ※今秋刊行の絵本「医者坊さんと人食い鮫」より

isha1

| ● 江戸のお話色々 | 20:51 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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江戸の農家

「江戸近郊農家は以外と裕福」

江戸時代の百姓は高い年貢の取り立てで、苦しい生活のイメージばかりが先行しているが、江戸近郊の農家は大都市江戸の食材需要から裕福な農家も少なくなかった。それに人口100万都市江戸が生み出す下肥は田畑にはもってこいの肥料で、良い作物が育った。それに江戸は鰯の漁獲量も多いことから、乾鰯なども肥料として使え、更に竃から出る灰も肥料として沢山手に入った。(江戸から遠い農家は腐葉土などを作るしかなかった)
農家は長屋の大家などと契約し、野菜や現金などと交換して下肥を手に入れた。大家は地主からの給金の他にそれが臨時収入にもなった。
●小話
馬鹿殿「これ三太夫、この小松菜は実に美味しいが、どうしてじゃ?」
三太夫「ははーっ、それは良質の下肥を使っているからでしょう」
馬鹿殿「そうであるか、ではこれにその「しもごえ」とやらをもう少しかけてまいれ」
三太夫「‥‥‥‥」

nouka1

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象の話

長崎から来た象

家康が元気だった初期の江戸時代(1602年)にも象は来ているが、吉宗の時代
1726年に来た象の話は有名。二頭の象がベトナムから、長崎経由で、東海道を歩き
二ヶ月ちょっとかけて江戸まで来ている。(一匹は長崎で病死)
江戸で見せ物になったあと、中野の農家で余生を送った。現在の歌舞伎座の前に
馬の訓練場があり、そこに隣接していた芝居小屋や茶屋などの収入を象の餌代に
当てていたらしい。
象はその137年後の幕末1863年にも来て(文久3年)
大フィーバーを起こしている!ちなみに、上野動物園が開園したのは、1882年
明治15年です。

●豆知識
今じゃとても想像出来ない事だが、現在銀座から築地方面に歩くと左に建設中の歌舞伎
座があるが、江戸時代はその反対側に「釆女が原」(うねめがはら)と言う馬の訓練場
があった。江戸時代の面白いところで、こんな場所に庶民は見せ物小屋とか
浄瑠璃小屋や、茶屋などを置いた。ここの売り上の一部を象の餌代にしたとの事、、。





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