江戸はえェどう    HOME

江戸文化を独自の視点で絵と共に取り上げています。

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「Ikebukuro1」

江戸時代の地図を見ると、池袋駅周辺は農村地帯で「池袋村」としてある。起伏のある
土地で池もあったようで、今でも目白から池袋に向かう明治通りは坂道になっている。
地図に「イタバシミチ」とカタカナで描かれた道をたどって行くと、板橋宿のある中山
道にぶつかる。池袋村の南に位置する鬼子母神参道には料理茶屋が多くあり、江戸の金
持ちの日帰り散歩コースだったようだ。今でも樹齢600年とされる銀杏の巨木が当時
を偲ばせている。
ikebukuro1.jpg
600ichou.jpg



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| ●Photo | 19:17 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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図書館で講演会1

図書館
昨年の夏(2013年7月)飯能市に立派な図書館が誕生しました。飯能市に
は河原沿いにも充実した子供図書館があり、文化レベルの高さを感じます。
今年出版された、ぼくの長編小説「江戸の象吉」はこの図書館の学習室を御借
りして書き上げた小説です。お礼として、ぼくの絵本や小説を寄贈させていた
だいたところ、江戸の出版事情についての講演依頼があり11月9日お話をし
てきました。来られなかった方の為に内容を簡単にご紹介します。

図書館
●2013年夏にオープンした飯能市立図書館
room1.jpg
●自由に使える学習室(各机には電源も完備)

kouenota1.jpg

kouenota2.jpg 


■識字率
江戸時代は識字率がとても高く、江戸後期町の中心部では100%近かったとの
ことです。同じ時代のロンドンが20%程度ですから、読み書き能力がいかに凄
かったかが伺われます。識字率が高ければ、おのずと本がよく売れる訳です。
優れた職人による精巧な木版画技術と、二百年以上の進化に乗って出版文化が花
開きました。識字率の高さには江戸以前の戦国時代に来た、ルイス・フロイスも
驚いてますから、いかに日本人が勤勉だったかが解り、植民地化が難かしいと思
わせた理由の一つにもなるかと思います。

■活版技術
秀吉が朝鮮に出兵した際に、活版印刷の技術を持ち帰りました。ヨーロッパから
もその技術が入り、キリスト教布教の為の本に使われようとしましたが、禁教な
どにより活版印刷は10年程で廃れていきます。「駿河版」活字も作られました
から、家康も当初はこの技術を取り入れようとしたようです。
Kouennkai2


■完全分業制印刷
現代のオフセット印刷に当たるのが、江戸時代の木版画です。木版画といっても
卓越した技術を持ったプロの職人による完全分業で、一枚の錦絵や本を印刷して
いました。版元(出版社)が絵師・戯作者(作家)・彫師・摺師を使い、質の高
い作品を数多く制作していました。楮から作られる丈夫な和紙と、目の詰まった
固い山桜の木が、江戸の出版文化を支えていたのも見逃せない事です。

江戸の木版画

■江戸と現代の木版画
江戸時代の木版画と現代の木版画は大きな違いがあります。それは、江戸時代の
木版画は殆ど全てが印刷する事が目的です。現代のようにオフセット印刷がない
江戸時代はこの方法しかありませんでした。絵師の作品を忠実に再現する事が最
大の目的でした。現代のそれは、木版画の味やテクスチャーを表現するため木版
画を選択する場合が殆どです。現代の木版画家は自分で彫ったり、摺ったりしま
すが、江戸時代絵師の北斎や広重は自分で版画を彫る事はしませんでした。現代
の絵描きが印刷工場に出向いて、製版しないのと同じ事です。
江戸と現代 
■錦絵と図絵もの
江戸時代の木版画は大きく二つに分ける事ができます。歌麿や広重
などが描く浮世絵は、時に美化や誇張が多く見られます。それに対
して、「江戸名所図絵」「都名所図絵」「伊勢名所図絵」などの図
絵ものは、その当時の風俗や建物などを忠実に描いてる場合が多く
当時の事を正しく知る資料としては最適です。又黄表紙などの挿絵
も、江戸時代の風俗がよく描かれています
錦絵と図絵もの
■神業的テクニック
江戸時代の木版画職人は他の職人同様に10才位から修行に入りますから、その技
は現代の職人は全く及ばない高度なものでした。これは「合巻」と呼ばれた本の挿
絵ですが、定規と比べると髪の毛の線がいかに細く彫ってあるかが解ります。下の
文字は「江戸名所図絵」の一部ですが、これも定規と比べると、文章のルビまでま
るで筆で書いたような細い線で彫られています。
soushi3.jpg

soushi1.jpg


電気のない時代
日本に初めて発電所が出来たのが1887年(明治22年)です。石炭による
蒸気でしたが、東京のど真ん中の南茅場町でした。日本に限らず電気が発明
されるまでは世界中が電力ゼロで生活してきました。長い人間の歴史からす
ると電気を使い始めて、まだほおんの100年ちょっとということになりま
す。そして今はそれがないと何も出来ない時代になってしまいました。江戸
時代の人も電力ゼロであの大都会を運営してきました。その中であれだけ高
度な印刷を考え出し、気品の高いハイレベルな本作りをしてきた事をかんが
えると、何か江戸の人から学ばなくてはと思ってしまいます。

年表new

| ●講演会 | 14:37 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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図書館で講演会2

木版画の歴史
江戸と言えば「浮世絵」とか「錦絵」という言葉が浮かびますが、最初から
色摺りの版画があった訳ではありません。菱川師宣の墨摺り絵からはじまり
手彩色(丹絵とか紅絵)や型紙による彩色(合羽摺り)、一色摺(紅摺絵)
などを経て、浮世絵師鈴木春信と出版プロディユーサーの大久保巨川によっ
て極彩色の錦絵が一気に世に広まりました。その後、大物版元、蔦屋十三郎
によって、歌麿や北斎や写楽などが世に出ました。広重は幕末のもっと後の
時代の絵師です(残念な事に江戸で流行したコレラにより亡くなってしまい
ました。1858年)

草紙の歴史new

 
遊郭吉原の語源

江戸時代の落語にも多く登場する遊郭「吉原」は、別名「中」(なか)とか
「北国」(ほっこく)とも言いました。浅草の裏田んぼに移転される前は、
江戸のど真ん中にあり昼だけの営業でした。1657年明暦の大火の時に移
転し、夜の営業も許るされました。江戸の土地は家康が入った1590年頃
は葦(あし)の生い茂る寒村(漁村)でした。葦(あし)は悪しに繋がると
のことから、葦(よし)「良し」と言うようになり、それに「吉」の目出た
い字をあてて葦原→吉原というようになりました。
葦の話し

■風水
江戸の町は京都に習って町作りをしました。風水による東西南北に四つの
神を配そうとしましたが、江戸には大きな問題がありました。北側に山の
神「玄武」を配さなければならなかったのですが、西側には神と崇める富
士山があったのです。そこで、四つの神の並びを90度回してしまいまし
た。そして北側には、京都の比叡山を名前だけ持ってきて、上野の寛永寺
を東の比叡山=「東叡山寛永寺」としました。現代の東京で、本来なら西
側に来るはずの虎ノ門が皇居の南側にあるのがその証拠です。

風水と四神

■落語「百川」
古典落語に「百川」というお話があります。日本橋浮世小路にあった料理
茶屋で実際にあった話しを元に作られた話だそうですが、その話しに、こ
の四つの神を使った祭りに使う旗が出てきます。「四神旗」又は先に剣が
ついている事から「四神剣」ともいい、祭りの重要な象徴として使われま
した。又、相撲の土俵の四隅にある房の色もこの四神があしらわれていま
す。
落語百川

鎖国の言葉
江戸時代は鎖国政策をとったといいますが、実際にこの言葉が出てきたの
は、江戸もずっと後になった1801年の事です。造語の天才と言われた
蘭学者志築忠雄が、日本を旅したドイツ人、エンゲルベルト・ケンペルの
日本の事を書いた「日本誌」を訳した時に作った言葉です。彼はその他に
も、「頭痛」「風邪」「加速」「衛星」などの言葉も造ってますから、こ
れらと関連して考えると「鎖国」がどういった言葉だったかが垣間みえる
かと思います。江戸の一般庶民は国が鎖国している認識はなかったかもし
れません。

鎖国論


| ●講演会 | 11:32 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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図書館で講演会3

江戸の始まり

東京が今世界1の大都市になっているのは、徳川家康が1590年8月に北条氏に代わ
って江戸の地に入ったのがそもそもの始まりです。とは言ってもその当時家康は三河の
大名、豊臣秀吉が天下を取った事で、僻地の関東に言わば飛ばされた訳です。この湿地
帯を埋め立て10かけ苦労してなんとか町を作りました。江戸に入って10年目の160
0年の関ヶ原の戦いで天下を取った事で、その工事が天下普請となり、各地の大名がお
金と人をつぎ込んで、一気に町作りが進みました。この地図の様に日比谷の辺も埋め立
て前は入り江で、浅瀬にうめる漁や海苔の養殖用の細い棒を「ひび」と言った事から「
ひびや」の地名が生まれました。1603年に幕府を開きますが、大阪にはまだ豊臣秀
頼が健在でした。そこで、盤石な徳川政権にするため1615年の「大阪夏の陣」で戦
国時代最大規模の戦をお越し、豊臣氏を滅亡させ、徳川幕府による長い江戸時代の始ま
りとなりました。安定した政権が出来、やる事は全てやり終え安心したのか、翌年に家
康の波瀾万丈の人生は終わります。天下を取った勢いで、家康、秀忠、家光と江戸城に
は三つの天守閣が次々と作られますが、1657年の明暦の大火で焼失した後、江戸城
には二度と天守閣は作られませんでした。理由は財政上の問題と、天守閣は権威の象徴
なので、必要がないとの事からでした。(テレレビドラマで、徳川吉宗が天守をバック
に立っている様子は全くの嘘という事になります)

※地図は1590年家康が入ったばかりの江戸で、上野の辺は湿地帯で、深川は三角洲の
なにもない状態でした。下は1643年家光時代の江戸。
edo1590.jpg

edo1643.jpg

| ●講演会 | 15:32 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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旅その5

トラベルコーディネイター

江戸初期、武士は領地と江戸間の用事、商人は家職のため、一般人は信心のため巡礼修行の旅をしました。でもまだまだ自由な遊山旅に出たりはしませんでした。旅が本格的に流行しはじめたのは、1700年中頃からでしょうか。それでも表向き目的のない旅は許されなかったそうです。しかし「伊勢参宮や病気療養の湯治に行く」と言えばあっさり許されたのです。大方お宮参りは表向きでの目的で、実際は観光旅行の遊山旅です。1800年代初頭の呑気な時代に入れば、老若男女、子供まで好き勝手に旅に出ました。それだけ旅人が増えれば、それを当て込んだ商売が発達します。その代表格が「御師(おし)」と言う旅行業者です(伊勢では〝おんし〟と呼んだ)今で言う旅行代理店の営業マンでしょうか?宿の手配や、迎え先で旅人の荷物の世話や、年末には日本の各地を回り、お札を配ったり、祈祷しながら、宣伝して回ったそうです。団体旅行の「講」はこの御師が考えだした旅行のやり方です。
●旅その1●旅その2●旅その3●旅その4

※菅笠、手拭、竹杖、道中刀、振り分け荷物などは江戸の旅に欠かせなかった物です。
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「江戸の象吉」扉絵より

| ● 江戸のお話色々 | 20:41 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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人気化物

「大頭の嫁取り」

大頭「娘よ、この大頭の嫁にならぬか?」
娘「何を言う、私はそんな鼻毛の伸びた男はいやでございます」


江戸時代の黄表紙などで大人気の化物に大頭がいる。
大頭はさまざまで常連だ。
人間社会でも流行ったことがあり、お店の小僧が駕篭に和紙を貼って作った大頭を冠っ
て使いに出たりもしたらしい。
この大頭は僕の想像で、鼻毛の伸びた女好きな大頭だ。
ootama  

| ● 江戸のお話色々 | 19:25 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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旅その4

        「鍋釜夫婦二人旅」

釜代「おまえさん、頭のご飯が炊けたから、中食とするかい?」
鍋助「そうだな、おれの頭の煮付けも丁度いい頃合いだ」


明治になって蒸気機関車などの乗り物が発達する以前の旅はとにかく歩いた。
徳川幕府は庶民が国内を早く動き回り、国の改革が進むのが怖かったのかも?
現に、馬車などの交通を進言した者がいたそうだが、却下されています。
なにはともあれ、歩く人しかいないら道もそんなに荒れなかったんです。
早馬などは武士の特権だし、街道の馬子が扱う馬は歩きと同じ速度で早くはなかったですしね。
その分、東海道などの大きな幹線道路には宿場がほぼ10キロ毎にあり、歩く人のことを考えて整備されていましたし、その間にも「間宿(あいのしゅく)」という休憩所もありました。
「旅その2」でも書きましたが、一里の長さは地方によってさまざまでした。例えば山道や平地では同じ一里でも距離が違っていて(山道は短め、平地は長め)歩く人が疲れない様に考えられていたんですね。一里が3.927㌔と決められたのは明治24年になってからです。

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| ● 江戸のお話色々 | 20:44 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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付喪神(つくもがみ)

         「道具の化物」

悪兵衛は丘の上で道具達に言いました。
「おめえ達にも立派な魂があることがわかったぜ。だからもう脅かさねェでくれよ」
道具達は懲らしめるのをやめました。(絵の上の文章)

室町時代の絵巻物に、無下に捨てられた道具が化けて人間に復讐する絵があります。
そんな昔でも物を祖末にした人はいたのですね。
江戸時代は現代のように道具類の大量生産は出来ないので、物をとても大切にしました。ぼくのこの絵のように化けた道具のことを「付喪神」と呼んでいました。
この付喪神を題材にした絵本、「まげすけさんとしゃべるどうぐ」を作りました。
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| ● 江戸のお話色々 | 21:13 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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江戸近郊農家

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「江戸近郊農家は以外と裕福」
江戸時代の百姓は高い年貢の取り立てで、苦しい生活のイメージばかりが先行しているが、江戸近郊の農家は大都市江戸の食材需要から裕福な農家も少なくなかった。それに人口100万都市江戸が生み出す下肥は田畑にはもってこいの肥料で、良い作物が育った。それに江戸は鰯の漁獲量も多いことから、乾鰯なども肥料として使え、更に竃から出る灰も肥料として沢山手に入った。(江戸から遠い農家は腐葉土などを作るしかなかった)
農家は長屋の大家などと契約し、野菜や現金などと交換して下肥を手に入れた。大家は地主からの給金の他にそれが臨時収入にもなった。

●この下肥を題材にした面白い小話がある。
馬鹿殿「これ三太夫、この小松菜は実に美味しいが、どうしてじゃ?」
三太夫「ははーっ、それは良質の下肥を使っているからでしょう」
馬鹿殿「そうであるか、ではこれにその「しもごえ」とやらをもう少しかけてまいれ」
三太夫「‥‥‥‥」

| ● 江戸のお話色々 | 21:43 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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江戸絵本

         福音館書店こどものとも6月号

    「まげすけさんとしゃべるどうぐ」


magesuke1



<こどものとも>2014年6月号『まげすけさんとしゃべるどうぐ』の主人公、まげすけさんは江戸時代の髪結いです。彼は、自分の身の回りの物をそれはそれは大切に扱います。「しょうじさん あけたりしめたり ごめんなさいよ。」「げたさん、 るすばん ごくろうさんだね。」「おひつさんは いつも あたたかいごはんを ありがとうね」といった感じです。
まげすけさんが「おまえたちも くちがきけたら いいのにねえ」とつぶやくと、次の日の朝「だんなさま、あさでやすよ」と声をかけてきたのは……
まげすけさんが道具を大切にする心に反応したさまざまな道具たちが話しだし、本業の髪結いも大繁盛。それに目をつけたわるべえの悪だくみにまげすけさんと道具たちがまきこまれる、活劇風のお話です。
著者の太田大輔さんは古今亭志ん生の落語「火焔太鼓」を聞いたことをきっかけに江戸に興味を持ち、いろいろ調べるうちに、江戸のおおらかな魅力に強く惹かれていったそうです。この絵本の中にも、そんな太田さんならではの細かい描写がもりだくさん。金毘羅まいりの旅人や、江戸に多いといわれた「伊勢屋 お稲荷 犬(の糞)」を絵の中に探してみるのも楽しいですよ。(福音館書店フェイスブックより)

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magesuke2



| ●Extra 本の紹介など | 14:29 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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